町田康『告白』

jogantoru2005-06-23



 明治26年5月25日深夜、雨、河内国赤阪村字水分の城戸熊太郎は、博打仲間の谷弥五郎と共に同地の松永傳次郎宅などに乗り込み、傳次郎一家・親族ら十名を斬殺、射殺。被害者の中には熊太郎の妻ばかりか乳幼児も含まれていた。
 この事件は『河内十人斬り』と呼ばれ、河内音頭のスタンダードナンバーとして親しまれており、その中で二人は「男持つなら熊太郎、弥五郎、十人殺して名を残す」と、ヒーローとして描かれている。


 町田康『告白』はこの城戸熊太郎の幼少期からその最期、事件に行き着くまでの熊太郎の生涯とその内面を描いている。残虐な事件の裏にあった熊太郎の繊細かつ異端な心の声が全編に吐露されているのである。


 冒頭文引用
安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられない乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。
 父母の寵愛を一身に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
 あかんではないか。』


 あかんのである。
 そのあかん感じになったのにはいろいろの要因があって、あかん感じになったのだが、そのあかん感じは熊太郎の内面にも影響を及ぼし、最終的に『河内十人斬り』に繋がっていく。
 しかしながら熊太郎は生まれもって凶暴凶悪の悪党ってわけではなく、むしろ繊細でナイーブなせこい男なのである。そんな熊太郎が何故十人もの人間を殺したのか。それは本書コピーにもある『人はなぜ人を殺すか』というテーマに直結していく。
 この事件は一般的には村会議員をしている松永傳次郎の長男に借金を踏み倒され、次男に妻を寝取られた恨みによる犯行と言われているが、それだけではなかった。
 熊太郎は極度に思弁的な人間だった。
 頭に浮かんだことをそのまま口にする奔放な河内の人間の中にあって、熊太郎はあれこれと頭の中で考えて考えてもうまいこと言葉にならない。自分の思考だけがどんどん加速していき、その思弁を伝えられるべき人間が周りにいなかった。当時はまだ明治初期。熊太郎のような思弁的な人間は少なかった。でかく言うと近代的思想とでも言えるのかもしれない。武士は武士、百姓は百姓、男は男、女は女、そういう概念的な考え方ではなく、一人の人間として思考し考え生きる。そういう土壌がまだこの時代には出来上がっていなかった。
 要するに周りが阿呆過ぎてどうしようもないんだけど、自分以外全員が阿呆なために民主主義的に大多数の阿呆が『一般論』であり、思弁的で思慮深いマイノリティーの熊太郎が『異物』となって疎外されていくのだ。今の時代でもそうなのに、当時にしたら熊太郎なんてただのキチガイである。そうして段々と自分と自分以外の世界にズレが生じてしまうのだ。
 熊太郎はそれに気付く。
 「あかんかった」
 気付いた時には遅いのだ。
 思弁的な人間であったのがいけないわけでも、時代がいけなかったわけでもない。
 なんとなくタイミングが悪かった。
 なんとなく悪い方悪い方をチョイスしてしまった。
 言ってしまえばそれも熊太郎の極端な思弁が引き起こしてはいるんだけど、思考と言葉の一致しない熊太郎はその居心地の悪さにもどかしさを感じながら、自分の言葉を伝えようとあがいた末の単なる結果にすぎないのである。


 この本を読み終えた時に東京都板橋での両親を殺害してガス爆発させた少年の事件の報道を見た。『お前は俺よりバカだ』と言ってきた父親と、いつも口癖のように『死にたい』と言っていた母親を殺した少年。死にたいって言ってたから殺した。これってものすごく間違ってるようで妙に納得出来たりもする。何故だか熊太郎が重なって思えた。
 でも、やっぱ殺しちゃいかんのだが。


 とかく世間には阿呆が多い。
 思慮の浅い阿呆の相手をするのはめんどくせえものだ。


 って、なんとなく締めようかと思ったけど、締まらない。書いてるうちに自分が何書いてるんだか分からなくなってきた。これも思考と言葉のズレなんだろうか。いや、頑張った。俺頑張ったと思う。全体的にいろいろも頑張ってると思う。
 でも、
 あかんかった。