舞城王太郎と吉田豪と「en-taxi」

 本番が近付くにつれバタバタと忙しくなり本屋を覗くこともままならず俺の読書欲が疼いて疼いてしゃあない。みんなにとってのストレス解消は酒飲んだり衝動買いしたり弱い者いじめしたりであるのなら俺の場合のそれは読書なのである。仕方ないから棚にある以前買った本を再読するようになるのだが昨日手に取ったのは2003年夏に発売された文芸誌「en-taxi」第2号である。
 この「en-taxi」。責任編集が柳美里福田和也坪内祐三リリー・フランキーという当時鳴り物入りで創刊された文芸誌。新宿の紀伊国屋(ハンズの近くの)で見つけた時にあまりの文芸誌じゃないっぽさに「ぬおお」と驚愕したのを覚えている。
 
 おおお、オシャレ文芸誌、しかも500円とは文芸が僕のところまで降りて来たなどと即買いした。
 この「en-taxi」で俺は舞城王太郎を知ることとなる。それが短編『W』である。
 この全身複雑骨折で死にかけた自分の中に脳内双子の姉を飼いながら訳分かんない漫画描いてる「俺」が狂ってんだか狂ってないんだか自問自答しつつやっぱおかしくなっていく(文章じゃ全然説明出来ん)っていう話で冒頭の一文からその文体と勢いとセンスに雷ビカビカー脳天にドーーーンですっかり舞城にハマった。

『俺ん中に今女バージョンの俺がいて、微妙に双子なんだけど違くって、顔可愛くて無害っぽい。』

 えー?こんなんでいいのー?つーかすげー、すごすぎるー。と文学ナメてた俺の衝撃っぷりったらなくてソッコーで『阿修羅ガール』読んで『煙と土と食い物』読んで売ってるやつは全部読んであとは「文藝」やら「新潮」やらを読みまくった。
 でもよく考えてみると俺よく芝居の本番前にこの『W』を読む。
 それはこの「俺」はどんな自分も演技している自分だっていう考えを持っていて自己像も自我も無意識の自分ですら無意識の演技をしている自分だと考えている。そこにこんな言葉がある。

『演技は楽しい。演技する《PLAY》は遊ぶ《PLAY》だ。俺たちは誰に頼まれなくても報酬をもらえなくても観客がいなくても演技する。それが心底楽しいからだ。遊びなのだ。』

 それが正しいのか分からないが、よくこれを読んで何となくテンションが上がる。今もちょうど煮詰まってたところだったから本能的にこの本を選んだのかもしれない。舞城の作品にはいつも心にグワーンと響く素敵な言葉があって、その一文にギャワーンとやられるのである。

 で、その後に吉田豪の短編を読んでゲラゲラ笑う。タイトルは『YAWARA、その愛。』。国家的陰謀のもとでYAWARAちゃん(仮名)と結婚させられるハメになるヨシ君(仮名)の話。リアル。読んだ時はこれこそが真実なんじゃないだろうかって思うくらいに面白かったしリアルだった。その後吉田豪のこういった短編とか見かけないけど書いてくんないかなーと思う。現実世界を茶化しに茶化してほしいと思う。

 でも困ったことに「en-taxi」も読み終えてしまったので明日から読む物がない。台本を再読しよう。俺まだまだですし、演技の《PLAY》を遊びの《PLAY》にしなければならんので。