『となり町戦争』三崎亜記

 
 小説すばる新人賞受賞作。三崎亜記という名前と装丁から著者は可愛らしい文学少女かと思いきや神経質そうな眼鏡の似合うくすんだ感じの青年だった。いや別にがっかりはしてねえけど。

 ある日、町の広報紙にとなり町との戦争が始まったという記事が出る。しかし日々の生活には何ら変わらずどこにも戦争の気配すらない。やがて『僕』は町役場から『戦時特別偵察業務従事者』に任ぜられる。つまりは敵地=となり町を偵察するためにとなり町に引っ越して様子を報告するという任務。しかしそれでも戦争の実態は見えず淡々と日々は過ぎ、広報紙にだけ戦死者の数が記載されていく。そして『僕』はリアリティのない見えない戦争に少しずつ巻き込まれていく。

 僕たちは主人公と同じく戦争に実感の持てない世代で戦争について語る権利すらないように思える。極端に言えば僕にとってはイラク戦争湾岸戦争も9・11ですらテレビの中の出来事で、それを見て「酷いなあ」とか「可哀相だねえ」とか「戦争反対!」とか思いながらメシ食ってて、テレビ消せば忘れられちゃう程度のものだった。どこかで『自分とは関係ないこと』として切り離して見ている。
 戦争がいけない行為だと認識するモラルはあってもやはりそこにリアリティはない。それは自衛隊イラク派兵にも通じる部分があり、彼らが如何に危険に身を晒されているという報道を目にし耳にしてもそのリアルは僕までは届かず、語弊があるかもしれないが「口髭を生やすとイラク受けがいい」って言ってた指揮官の姿は滑稽にしか見えなかったし、どこか『イベントに参加している』ような錯覚すら覚えた。そこまで言うと言い過ぎなのかもしれないけど僕にとって戦争というものは映画や本、また社会通念から得たイメージとしての『戦争』でしかなく『戦争における死』でしかないのだ。だって僕は戦争を肌で感じたことがないから。死の恐怖に接したことがないからだ。
 本書にはそんな『戦争にリアリティを感じられない』僕らにとっての『リアルじゃないリアルな戦争』が描かれている。イラク派兵に感じた違和感があった。淡々と進んでいく実感のない戦争。派手な爆撃も戦闘も出て来ない、しかし僅かだけど決定的なズレの生じている日常、そこに僕らが感じることの出来る戦争の姿がある。映像や情報から得るのではない肌で感じられるリアルな戦争がそこにある。感情の排除された行事としての戦争に巻き込まれるしかない一般市民の姿は今現在を生きている僕らの姿のようだ。それは戦争だけではなく社会でも人生でも大きなうねりにただ流されるだけしかないという事実にどうやって抗う事が出来るのかとか思うと非常にいろいろと考えてしまったりするけど、やっぱりまた朝になったら普通に当たり前の一日が始まるのであります。